先輩秘書からのメッセージ 河野 雄一郎

秘書は「読み」

 私が初めて秘書の仕事に就いたのは1999年の年初だった。入社3年目から11年間、六本木ヒルズ再開発の地権者交渉を担当。その後約1年間、当時社長だった森稔の都市政策立案活動をサポートする特命チームに籍を置いていた。仕事始めに出社すると、所管役員から異動の可能性を耳打ちされた。翌日に正式発令、その翌日には秘書室に着任という慌ただしいものだった。森からすれば、暮れに私の異動を決めていながら、仕事始めの日に姿が見えなかったので「さっさと来い」ということだったのだろう。未だに異動決裁がないままになっているらしい。
 なぜか以前から「河野は秘書向き」と言われていたので、大きな驚きはなかったが、「秘書室長」という役目の重さも理解していなかった。しかも前任者は2ヵ月前に先行して異動しており、引き継ぎなしという、極めて能天気な状態で私の秘書人生がスタートした。「見よう見まね」というが、真似する前任者もおらず、秘書の仕事の中身も心構えも何も知らない。しかし、途方に暮れる暇もなく、只々、森の期待に応えることだけを考えて業務をこなしていった。
 森から受けたアドバイスは「君は俺の分身なのだから、何も遠慮せずに動き、言ってこい」というものだった。当時38歳。オーナー社長の分身なぞ想像もできないし、以心伝心で考えが伝わるほどの経験も能力も無い。情報量もその吸収力も比較にならない。
 さて、どうしたものか。
 そのときは明確な答えを見つけられなかったが、今にして思えば「常に社長の立場で物事を考えよう」ということだけはずっと心がけてきた。スケジュールを組むにしても、社長の立場で考えれば何を優先すべきか、どんな準備をしてほしいか。デスク回りは散らかっていないか、いつもあるものがいつもの場所にいつもの向きで置いてあるか。

ハードな会議の後はどうクールダウンするか等々。
 森は随行する私を常に脇に置き、重要なお客様にも紹介し、名刺交換をさせてくれた。そのような扱いをしてくれたので、相手も「こいつに頼めばトップにつながる」と信頼もしてくれる。時には社長に言いたいことを、私から伝えて欲しいと頼んでくる人もいる。次第に自分に役割が生まれ、仕事が面白くなった。
 森は、しばしば「君はどう思うか」と聞いてきた。そんな大きな話を秘書に聞くのか、という内容のものもあった。しかし、社長の行動に寄り添い、社長が何に興味があるかを考えていれば、事前に情報収集もでき、何らかの意見は言えるものだ。
 あるとき、森が親しくお付き合いをさせていただいていた方から「森さんに今度の秘書はどうですか、と尋ねたら『あいつは読みがある』と言っていたよ」と教えてくれた。私に伝わることを想定した「読み」から来る最大級の世辞だろうが、嬉しかった。
 以来、私は「読み」を大切にしてきた。
 「読み」は勘ではない。社長の関心事や気分、会社を取り巻く環境、その他諸々の情報を、自分の中で瞬間的に想定問答をして準備するのが秘書の「読み」だろう。野球のキャッチャーの配球も、バッターが次の球を読むのも、ピッチャーの持ち球や癖、調子などあらゆるデータから導かれるのと同じことだ。突発的な指示やドタバタは日常茶飯事だが、常に「読み」を働かせて心の準備ができれば、それほど慌てなくて済むはずだ。
 しかし、どんなに「読み」を働かせても、読み切れないところに森の凄さがあった。
 読んでも、読んでも、読み切れない。だから秘書は面白い。